「煎餅干す日影短し冬の町」 子規
千住から草加まで日光街道をぶらりぶらりと歩く、俳人・正岡子規と弟子の高浜虚子。
草加に着くと、軒を並べるせんべい屋の庭に、ずらりと並べて干してあるせんべいの生地。
そんなせんべいの街、草加を詠んだ子規の句です。
時代はさかのぼって江戸は元禄時代。
「今年元禄二年にや、奥羽長途の行脚、ただかりそめに思ひたちえ、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳にふれていまだに見ぬさかひ、もし生きて帰らばと定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり」
ご存知、松尾芭蕉「おくのほそ道」の一節。
実際には芭蕉は、草加ではなく粕壁(春日部)に泊まったと後の研究で判明しますが、本文にははっきりと「草加」と記されています。
江戸末期文化文政の頃、草加宿青柳の庄屋藤波家に、近郷の小作人がせんべいを歳暮として届けにきたと、古文書にでています。
「せんべい」という言葉が、文書に記されてのは、これがはじめて。
当時のせんべいは、砕いた米を蒸し、棒状にして塩をまぶし、輪切りにして焼いたもの。
その頃、綾瀬川の水運を利用して、近在の農産物が江戸に運ばれていましたが、草加はその集散地。
船頭たちはひと仕事を終えると、このせんべいを好んで食べたといいます。
これが広がって、神社仏閣の縁日や市で「塩せんべい」として、たいそう評判になったそうです。
醤油を塗るようになったのは幕末から。
醤油は室町時代から作られていましたが、江戸時代初期は大坂(大阪)から運んできた下り醤油だったので、価格も高かったそうです。
江戸時代中期、享保のころになると、千葉、埼玉、茨城、神奈川の醤油が改良され、主流となり、価格も手ごろになりました。
幕末には、街道沿いの茶屋で使われるほど普及したそうです。
醤油のつけ焼きは香ばしい香りがあり、米の持ち味をひきたてる。
やがて、「塩せんべい」という名前だけは残して、醤油せんべいがせんべいの代名詞となっていきました。
言い伝え 「おせんばあさん」
草加が日光街道の宿場町で栄えていたころ、街道沿いにある茶屋で、「おせん」というお婆さんが団子を売っていました。
そこで売れ残ってかたくなってしまった団子は、川に捨てていました。
ある日、旅の侍がそれを見て、「それはもったいない。その団子を平らにつぶして天日で乾かし、焼餅として売ってはどうか?」 と勧めました。
おせん婆さんは言われた通りにしてみると、それが大変評判となり、やがておせん婆さんにちなんで、「おせんべい」と呼ばれるようになったとい言われています。
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